良心を持たない人間が、一定数いる事実について

世の中には「良心を持たない人」が実際に 25人に 1人くらいの比率でいるそうだ。

 

とてもショッキングなことだけども、よく考えて見ると不思議ではないのかもしれない。

そもそも「良心」とはなんぞや。

曖昧な概念であり、精神的機能だ。考えれば考えるほど、それがなくても経済活動、つまり普通の生活をする上では支障ないように思える。

逆に言えば、なぜそのような精神的な特性を人間は獲得できたのだろうか?必要性がない機能なのに。何かの理由があって獲得した特性ではあるが、必要性の面から言って、必須の性質ではないのだろう。

そう考えると、良心を持っていない人間が一定数存在するとしても、それはむしろ不思議ではないのかもしれない。
人類すべてが良心を持っているよりも、あるいはみんな良心を持っていないよりも「25人に一人くらいの比率」で、良心を持たない人間が混在しているほうが、人類全体の進歩や活動にはプラスになるのかもしれない。

彼らは実際に身近に珍しくなく存在する。

良心に阻害されることなく目的のためにあらゆる行動ができ、どんな行動を取っても自責の念で苦しむこともない。「競争原理のみの経済活動」の中では、むしろ都合が良いと言える。
彼らが犯罪を犯さないのは、法律で裁かれ処罰を受けるからにすぎない。あるいは、他者から非難され攻撃を受けるからにすぎない。法律がなく、非難もたいして受けないのなら、やりたいことをやる。それが良心を持たない人たちだ。

彼らは「良いことだ」という理由で善行を行うことはない。一般的に良い行いだ、とされている事柄を、自然と「良い行いだ」と感じることはない。

 

ブラック企業など、社員を食い物にして金儲けをしている企業や団体はいくらでもある。金儲けだけが全てに優先するような、モラルのない会社など珍しくもない。「ばれなければ良い」という感覚で、平気で不正を働く大企業など、日本ではむしろありふれた存在だ。

当然、そういう会社の幹部は、良心を持たない可能性が高い。「会社の繁栄がすべてに優先する」という考えかたや価値観を、表立って口には出さないが、価値観の中心に据えている経営者は膨大にいるだろう。
そもそも、新自由主義の資本主義社会では、良心を持っていたら経済競争でフルになるのだ。経済的勝者になるためには、良心などないほうが都合が良いのだ。


良心を持たない人間が、実際に25人に一人の割合で存在する。
彼らは良心を持たないがゆえに、良心が何であるかを想像することができない。彼らにとってそれは、単なる抽象的な概念やラベルにすぎない。
実感として良心を感じることはない。

人類に普遍的に存在する人道や倫理は、良心によって発現し構築されたものだ。ゆえに良心を持たない人間は、人道や倫理を、自身の中から湧き出る観念として感じることがない。
それらを、単に「誰かが決めた、あるいは昔から決まっている規範やルール」だと思っている。

だからそれらを教育によって子供に植え付けることができると考える。
んなわけないのに。


日本国憲法の前文には「〜これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである〜」「〜恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚する〜」「〜政治道徳の法則は、普遍的なものであり〜」と書かれている。

良心を持った人間であれば、これら宣言は自明のことであり、良心に照らして真実であると、自然に理解できる。何の疑いも持たない。

ところが良心を持たない人間は、この前文を「単なるお題目。誰かが勝手に決めたルール」だとしか感じないのだ。これらを自然に受け入れられる良心を持っていないからだ。

 

社会すべてが良心を持たない人間ばかりになれば、社会は自滅するはず。

逆に、すべての人が良心を持っていると、人間の集団、組織は弱体化して外敵に対応できなくなるのかもしれない。

それで一定の割合(1/25)の比率で良心を持たない人間が存在し、彼らを規制するためにマナーやルールや法律が発達してきたのかもしれない。